Makoto Kuriya

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クリヤ・マコトのフロムA



クリヤ・マコトのフロムAはぼく、大学に入学してから卒業するまでにかなりの年月をかけている。実際に学校に通っていたのは3年半で、ある意味飛び級で単位を獲得しているのだが、休学していた期間があるんだ。アメリカの大学教育はそのあたり、とても融通が利く。勉強したい人が本当に勉強できるシステムが確立しているんだよね。例えば学費を稼ぐためにたびたび休学する人も多くて、何度でも休学し、何度でも復学できる。ぼくの場合は就学途中で、インドネシアに単身赴任していた父親が病で倒れてしまったため、急遽家計を支えるために帰国したんだ。
 そんなわけで当然この間、仕事をしてました。当時の職歴はかなりバラエティーに富んでいる。なにしろ半ば学生気分なので、いろんな仕事を点々々々.....。石油タンカーの石油をはかる仕事、英語の家庭教師、辞書作成のための資料収集、KDD国際通話通訳サービス、電子楽器の取扱説明書翻訳。ついでにアメリカに住んでいた頃は、留学生なら誰でも経験しているであろう日本人観光客相手のガイド、あともちろんピアノ教師と各種ギグ。こうして思い返すと、やっぱり英語を使う仕事が多かったなあ。
 そんな中でも最も、おもしろかったのが派遣業だ。今でこそ人材派遣はあたりまえだけど、当時はまだあまり一般的じゃなく、先駆けの時代だった。その頃のぼくは既にアメリカと日本を行ったり来たりしていたんだけど、それができたのもこの仕事のおかげ。とにかくギャラがいいんだ。派遣先は大手ゼネコンなどで、海外建設プロジェクトの通訳・翻訳要員として参加するというケースが多かった。テンポラリーとはいえ、大手町や丸の内の上場企業で、まるでサラリーマンのような生活をしていたんだ。時には香港、韓国などの現場に派遣されることもあった。一度はなんとバグダッドへ行くことになり、予防注射も済ませ、荷物も全てパックし、明日発つぞ!という日に突然戦争が勃発して中止になったこともあった。いろんな国へ行けるのも楽しかったが、日本の一流企業という所を体験できたのも面白かった。ミュージシャンにとってはある意味、外国みたいなもんですよ、これは。おかげでミュージシャンとしては随分回り道をしたと思うのだが、人生経験としてはなかなか貴重だったと思う。それに現在の活動の原動力になっている部分も多いように思う。
 それにしてもこの派遣業(特に海外派遣)、当時22~3だったぼくにとってはめちゃくちゃにギャラが良かったなあ。どれくらいよかったかって?うーん、もしかしたらミュージシャンやるより良かったかも・・・・・(笑)。(写真はウェストバージニア大学の校舎前。)