Makoto Kuriya

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COLUMN

ジャズの血 クリヤ・マコト・ミュージックの原点

クリヤ・マコトが自ら語る、その音楽の原点。青春時代を過ごしたアメリカでの経験、黒人コミュニティーでの音楽体験の一部をご紹介します

blood

元 来音楽というものは、生きていくのが困難な人々にこそ最も必要とされてきた。ラテン社会やアフロ社会でポピュラー音楽が高度に発達した理由は、音楽が安価で身近な楽しみであり、人々の生活に深く密着しているからだ。
ぼくは学生時代、アメリカでまさにブルースが、ジャズが生まれた、その当時から脈々と受け継がれているアメリカ人の生活の中にいた。ブルースを生みだした人々の子孫たちがぼくをブラック・コミュニティーに快く招き入れ、その音楽の神髄であるに違いない音楽のモチベーションを教えてくれた。ぼくの友人はよく"I ate jazz."と言っていた。彼らの音楽の動機はこの一言に集約されている。彼らはパンだけじゃなく、ジャズを食って生きているんだ。ぼくはこれまで歴史的なジャズの巨匠たちから多くを学び、様々な影響を受けてきた。しかしぼくが"最も"影響を受けた音楽家は、マイルス・デイヴィスでもなく、ハービー・ハンコックでもなく、音楽に対する真の渇望を教えてくれた黒人コミュニティーの仲間たちだった。
黒人といっても、アメリカには様々な黒人がいて、様々なブラック・コミュニティーが存在する。都市ではそれこそストリート・ギャングや生活保護者もいるし、逆に中産階級の人も、成功している人もいる。最近の黒人ジャズメンは、多くの場合中産階級の生まれで教育もある。昔と違い、酒もクスリもタバコもやらないというクリーンなミュージシャンも少なくない。最初から音楽学校に入っていたら、ぼくもおそらくそういう連中とばかりつきあっていたのだろうと思う。ところがぼくが学生時代に一緒に音楽を始めた仲間は、そんな中産階級出身のミュージシャンたちじゃなかった。むしろアメリカ社会の底辺で懸命に生きる貧しい連中だった。このことがぼくの音楽人生に重要な影響を及ぼした。

高校卒業後、ぼくが留学先に選んだのはウェストバージニア州立大学だったが、これは単純に学費が安いという理由だった。実際に行ってみると、そこは楽園のように美しい田舎町だった。アパラチアの山の中に突如現れる近代的な学校施設。それが広大なキャンパスを抱くモーガンタウンという町だった。このあたりはそろそろ南部社会へと変わっていく境界線で、周囲には人種差別主義者も多かったが、大学のあるモーガンタウンだけはリベラルな学生や教授たちが集まる、差別も偏見もない町だった。この学校を選んだことは、ぼくにとってまさに運命としか言いようがない。ぼくは言語学専攻だったが、この大学には一応芸術学部があった。それで田舎ながら申し分のない練習環境があった。図書館には自由に閲覧できる膨大な譜面のコレクションもあった。だけどぼくはまもなく学校の仲間ではなく、町の酒場で演奏するミュージシャンたちとつきあうようになった。じきにあちこちのセッションや仕事に誘われるようになり、芸術学部の学生でもないのにレッスン室に入り浸った。近隣都市で仕事をこなすようになると、そのうちに芸術学部の教諭連中までがぼくに音楽理論の事を聞きに来るようになった。もちろんバークリーやイーストマンのような音楽学校に留学していたら、到底そんなわけにはいかなかっただろう。ある側面では片田舎の「井の中の蛙」だったのだが、ぼくは次第に町でも評判のプレイヤーになっていった。
実際には、これには理由があったんだ。一緒に留学した日本人の友人は裕福な人が多くて、休暇になると帰国したりバカンスに出かけていた。だけどぼくは仕送りが少なくて、バカンスになど到底行けなかった。だから長期休暇には空っぽの学校でひたすらピアノを弾くしかすることがなかった。もちろん家にはピアノなんか無いし、夏にはクーラーもないから自動的にレッスン室や図書館に入り浸るのだ。そしてアメリカ人の学友も皆バカンスへいったり実家へ帰っているから、当たり前のようにぼくは地元の人たちと親しくなり、地元のミュージシャンたちとつきあうようになったのだ。要するに貧しさがぼくを彼らと結びつけたわけだ。アパラチアは自然環境が厳しく、夏は焼け付くように暑いが冬は極寒。氷点下の中、何ヶ月も雪に閉じこめられる。こんな土地では人々は、助け合わなければ生きていけない。モーター社会のアメリカではすぐに免許を取らなければ暮らしていけないが、金のある連中は状態のいい車を買い、金がないといつでもポンコツに乗る羽目になる。ポンコツは当然すぐに故障して止まってしまう。氷点下の雪の中で車が止まればどうなるか?当然命の危険が及ぶことになる。だから貧しい人たちほど助け合う。出かけた友人が戻らなければ、たとえどんなに忙しくても必死で捜しに行く。そうやって助け合って生きているうちに、いつの間にか家族のようになってしまう。
ぼくのブラザー、ケヴィン・フライソンはまさにそんな友人だった。ぼくと彼の関係は音楽で結ばれていて、彼は町で一番のベーシストだった。ケヴィンは幼い頃屋根裏で見つけたジョン・コルトレーンのレコード・ジャケットが、死んだ父親の面影にそっくりだったのがきっかけでジャズを始めた。彼のヒーローはチャーリー・ミンガスで、部屋にはマーティン・ルーサ・キングの写真を飾っていた。ぼくらはいろんなバンドで一緒にプレイした。近くの町や遠くの町へも車で演奏に出かけた。ぼくたちは家族のように親しかったので、彼はぼくを黒人街のクラブにも連れて行った。危険な街へ行くときは、黒人の友人たちがぐるりとぼくを取り囲んで守ってくれた。10代の時からそんな生活をしていたものだから、ぼくはもうすっかり黒人かぶれで、鏡を見なければ自分が日本人だって事を忘れてしまうくらいだった。毎日黒人たちと食事をして、買い物をして、音楽をやって、スラングを話していたのだから無理もないと思う。彼らもぼくを仲間として扱ってくれていたから、何でも躊躇せずに話してくれた。人種差別のこと、差別主義者たちのこと、アメリカ黒人の歴史のことなど、幾夜も幾夜も寝ずに語りあった。別にことさら社会的な人物じゃなくたって、アメリカでは黒人はそういうことを考えずに生きていくことはできない。差別は歴史じゃなく現実のことだからだ。同じ経歴を持っている場合、経営者はまず白人を雇う。事業を縮小する場合には、まず黒人から解雇する。そういう現実があるからこそ彼らは、日常会話のように人種的、社会的な話をするし、マーティン・ルーサやほかの黒人指導者の話もする。

ちなみにケヴィンは音楽で生計を立ててたわけじゃない。初めてであった頃は、彼は炭坑で働いていた。ペンシルバニアからウェストバージニアあたりは昔から鉱業の中心地で、カーネギーの本拠地でもある。炭坑夫の多くはケヴィンのような貧しい黒人労働者だ。その後彼は炭坑で足を怪我して入院し、そのまま解雇されてしまった。不当な扱いである。こういう現実に直面するから、誰もが多かれ少なかれ社会的にならざるを得ない。こうしてケヴィンは一時期、生活保護を受けることになった。生活保護者には州から「フードチケット」が給付される。これは、グローサリー・ショップで加工食品以外の食品を買うことが出来る金券だ。ケヴィンは月末になってぼくの仕送りが乏しくなると、このフードチケットを分けてくれた。自分が何も持っていないのに、それでも人に分け与える気持ちを持っているんだ。職を失ったケヴィンはそのうちに電気を止められ、水道も止められそうになった。家賃に含まれているガスだけは止められないので、ガスコンロを全開につけて暖をとる。しかし氷点下になる土地柄だけに、電気が使えないのは死活問題。まして断水は言うまでもない。こうしてライフラインを一つ一つ失っていく中、職は見つからず暇だけは山ほどある。残る手段は「説得」しかない。ある日ケヴィンはいかにして水道料金の徴収人を説得し、料金未納のままあとひと月水を止めさせずにおいたか自慢げに話してくれた。この見事な説得力こそが彼らの音楽だ。ぼくはこのブラザーに本当に多くを学ん だと思う。今でも、彼の存在そのものが、彼の人生そのものが感動的だと思う。
ぼくは何よりも、彼らに音楽の本当の意味を教えてもらった。現在もとぎれなく続いている歴史の中で、アメリカの黒人たちが「何も持たないからこそ」音楽を必要としてきたことを、言葉ヅラではなく現実の事として学んだ。彼らにとって音楽は、単なる娯楽や気晴らしなんかじゃない。彼らは苦しいときには音楽と共にうめき、悲しいときは音楽と共にすすり泣き、嬉しいときは音楽と共に生きることの喜びを爆発させてきたんだ。音楽は彼らの人生そのものであり、彼らの叫びなんだ。ぼくは彼らと幾度、繰り返し繰り返しそんなことを語り合っただろう?友人の中にはKKKに祖父を殺されたという人物もいた。実際に自分が人種主義者に遭遇し、命の危険を覚えたという者もいた。ぼくは心底彼らのために怒り、彼らのために泣いた。ところがある時、友人がふと「おまえは帰る所があるからいいよな」と洩らした。その時ぼくは彼らの存在そのものが内包する哀しみを、ほんの少しわかったような気がした。ジャズやブルースの本質はまさにここにある。彼らは唾を飛ばし、言葉を尽くして力説するうちにいつの間にか歌っており、リズミカルで朗々としたフレーズを次々と絞り出した。ジャズやブルースの誕生はまさに、そっくりそのままここにある。

ぼくの話は少し前時代的でアナクロな感じがするだろうか?しかしこれは紛れもなくぼくが青春時代に実体験した友人たちとの生活だ。一体 何が変わっただろう?70年代にはアメリカのストリートからサルサが、80年代にはヒップホップが生まれた。サルサを生み出したのは主にプエルトリコやキューバからの移民や亡命者たち。そしてヒップホップを生みだしたのは主にジャマイカやハイチからの移民たち。彼らがプロジェクト(貧民者向け公共住宅)に住む貧しいアメリカ人であることに変わりはない。サルサやヒップホップは現代のブルースであり、ジャズだ。本質は何も変わっていない。音楽は生きていくことが困難な人々にこそ最も必要なもので、彼らの日々の戦いこそが新しい音楽を生み出す原動力になっている。ブルースやジャズ、サルサやヒップホップはどれも、彼らの生命力の爆発なんだ。戦いにうち勝つ者も破れる者もいるだろうが、音楽は等しく平等に彼らの財産だ。ぼくは黒人コミュニティーを美化するつもりはない。だが「音楽」は、すなわち「人々の生命力のきらめき」は、何よりも美しく貴重なものだと思っている。音楽はまさに人生であり、人の尊厳そのものだと思っている。
現在のアメリカでは、古くから定着し生活レベルの向上した黒人社会と、上記のような新しい移民たちとが断絶していると言われている。しかし古くから定着している黒人の子孫にもケヴィンのように貧しく、不当に扱われている人々はまだ大勢いる。ケヴィンはその後、刑務所で受刑者に音楽を教える公共の職に就いた。そこには才能のある若者が大勢服役しており、自分が彼らに音楽を教えてやれることに無上の喜びを感じると彼は話してくれた。ケヴィンはその後も相変わらず貧しかったが、黒人の孤児を養子に迎えて育てた。今ではその子が子供を産み、おじいちゃんになっている。ぼくの評判が遠方にも届き、首都やボルチモアあたりで仕事をするようになると、彼は自分のことのように喜んでくれた。彼は彼でフィラデルフィアやボルチモアのミュージシャンと交流し、最近自主制作のCDも作った。メンバーはクリーニング店の店員や、スーパーでレジを打っているボーカリスト。彼らは譜面も読めないし超絶テクニックも持っていないが、本物のソウルを持った素晴らしいミュージシャンだ。ぼくは彼らの部屋を隅々まで知っているし、彼らの生活や彼らの思いもある程度知っている。そしてマイルスやハンコックのよう な巨匠たちもまた彼らと同様、ブルースを生みだしジャズを育んできたアメリカ黒人の歴史に、しっかりと、確実に根付いていることを知っている。

音楽とは、人々に勇気を与え、人生が素晴らしいものだと感じてもらい、明日を迎える喜びを分かち合うためのものでなければ何の意味もないと思っている。だからこそぼくは、音楽に人生を捧げて何の後悔もない。ジャズを生みだしたアフロ・アメリカンの素晴らしさは、夢も希望もないかもしれない「明日」を、果敢に迎え入れる強さだった。その勇気と生命力を得るために音楽は不可欠なものなのだ。